2008年12月31日

日南市小布瀬の滝

日南市の小布瀬、深瀬地区、つまりこの滝がある周辺一帯は宮崎県はもとより、日本でも有数の降水量を誇るところで、特産物の飫肥杉が有名です。
 広渡川の上流、酒谷川に流れ込む支流にあるこの小布瀬の滝は、降雨量の少ない今の時期でも、滝壺に満々と水をたたえています。
 当然、雨のシーズンには雨量が増え迫力ある光景を観ることが出来ます。
 滝までは、比較的容易に行くことが出来ます。
 日南―都城をつなぐ国道222号線を日南からですと、日南ダム、道の駅・酒谷を過ぎてしばらくしてから左に折れたところに駐車場があり、その横に案内標識と鳥居があります。そこをくぐって、支流沿いに整備された遊歩道を2分も歩けば、休憩用の簡易施設を備えた滝壷の正面にたどりつくことが出来ます。
 高さは23mほどで、横幅も高さもむしろ小規模の滝ですが、まん丸な滝つぼがあり、小さいながらもまとまった滝です。
 冬場の今頃は水量もあまり多くありませんが、前述したようにこの周辺は雨の量が、宮崎県内でも最高で、梅雨や夏場の、降水量が多い時は滝の迫力も冬場と一変します。
 滝の周辺は整備されていて森林浴には最適の環境です。
 また、酒谷川を下ると日南ダムがあります。春になるとダム湖周辺はサクラで埋め尽くされます。

2008年12月30日

宮崎県川南町トロントロンのイルミネーション

トロントロンとは
 川南町中央公園を中心に南北1kmに及ぶ旧国道拾いには、トロントロンという珍しい地名を持つ商店街が約180軒ほど店を並べています。
 初めてこの地を訪れた人々は、必ず「おもしろい地名ですね」と関心を持たれます。
 確かに全国でもユニークな地名の一つなのです。
 人々がこの地名を耳にするとき、川南町独特の言葉のリズムを感じさせてくれます。
 おそらく一度でもこの土地を訪れた人なら、何を忘れても、この地名だけはなんとなく忘れがたいものになるのです。
 この地名の由来には様々な説があります。
 「西南の役」で大敗した西郷隆盛の軍勢が日向路を南下して、鹿児島に敗走する途中、現在のトロントロンの四つ角周辺の松林の中で休憩していた隊士達の耳に、近くで湧き出す小さな滝の水音が『タランタラン』と聞こえ、いかにもその音が敗戦の疲れを癒してくれるかのようであった事から、その後、誰がということもなくこの場所をタランタランと呼ぶようになり、年月とともに次第に『トロントロン』と変化して、今に継がれるようになったという説。
 あるいは「西南の役数年前に地名も何もなかった所に移住者がポツンと一軒の家を建て、その近くを流れ出る沼の水が約3.6mの滝となってトロントロンという水音を響かせ滝壷に落ちていたので自然にそのように呼ぶようになった。」という説。
 または「参勤交代の時にトロントロンと流れる水の昔を聞いて呼ぶようになった。」という説など、さまざまな説がありますが、実際のところはっきりした説得力のあるものがありません。

2008年12月27日

宮崎県川南町のイルミネーション

 県内ほかにもイルミネーションはたくさんありますが、今年12回目を迎える川南町の心意気を買ってここでは同所のみを紹介します。
 ここで紹介しています三原様のお宅の電飾は、1個人宅としては出色で、一般的な家庭ではとてもここまでは、出来ません。
 「サンタの家」がテーマの三原さん宅は高さ4mのサンタクロースをはじめ、約20,000個の電球で飾られています。
 三原さんが電飾をはじめたきっかけは 映画「ホームアローン」 とのことです。
 近くに国道が通っていて、いつも眺めながら通り過ぎていましたが、今回はじめてお邪魔しました。 日曜日の夕方6時過ぎでしたが、約20台は停められそうな駐車場はいっぱいで、若いカップルが、たくさん訪れていて盛んに携帯電話のカメラのシャッターを切っていました。
 約1ヶ月余りの電飾期間中、訪れる見学客が約20000人と聞いて唖然としました。
 一般家庭にそれほどの人々が訪れるなど、驚きを通り越して言葉が出ません。
 その凄さはまさに感嘆のひと言です。

2008年12月26日

宮崎県川南町のイルミネーション

11月30日(日)、高鍋から西都往復のウォーキングをして車を置いている高鍋・舞鶴城跡に着いたのが、午後5時30分でした。
 あたりは薄暗くなっています。ここまで来たのだからこの日は、前々から今の時期になると気になっていました高鍋の隣り町川南のクリスマス・イルミネーションを見学することにしました。
日曜日ですが、電飾を開始したのがつい1週間前で始めての日曜日です。
 まさか日曜日は消灯と言うことはありますまい。
 川南町は、日本三大開拓地の一つとして知られ、全国からユニークな人々が集まった町と言われています。
 人口は1万7000人ほどのごく小さな田舎の町ではありますが、ここ最近の町おこしに懸ける情熱は素晴らしく、大成功を収めている「軽トラ市」や、この電飾大作戦には町内外から多くの人々が押し寄せています。
 電飾も半端なものではありません。
 下の写真でお分かりかと思いますが、町の中央部に位置するトロントロンドームやその前の広場は36万個の電球で飾られ、まるで不夜城の如く輝いています。
 イルミネーション見学者を目当てに露天が並ぶなど他の市町では考えられません。
 周りに灯りがあまりないので、その美しさ鮮やかさは際立っています。
 一口に36万個の電球と言ってもピンときません。
 しかし、宮崎市の繁華街一帯を飾っている電球の数が30万個と言われています。
 それだけでも「ワァーッ!きれい」と言う声が挙がるほどですから、人口でひとケタ少ない小さな田舎町が、することはスケールが大きく全国から視察の申し込みが絶えないと聞いています。

宮崎垂水公園の紅葉

11月30日の日曜日は、朝から無風快晴その上気温も高くまさに小春日和。
 この日はまだ歩いたことがなかった宮崎県中央の平野部・高鍋町を訪れました。
 その前に、昨年訪れて気になっていた宮崎市北西部にある垂水公園の紅葉をカメラに収めようと、尋ねてみました。
 下の写真がその紅葉の模様です。
 木々はさして大きくはありません。まだまだ、紅葉に関しては歴史が浅く、密度も薄い状態です。
 しかし、地元の有志や宮崎市などが公園整備に取り組んでいますので、徐々にではありますが、これから整備が進んでいきますと、そんなに遠くない将来、紅葉の名所としても認知されることになることでしょう。
 もともとは、桜の名所で例年桜の開花時期にはたくさんの人々が訪れます。

垂水公園とは
宮崎市の北西部の小高い台地に位置する垂水(だるみず)公園周辺からは約1万年前のものと見られるナイフ形石器が出土していて、旧石器時代の人々の生活のようすを知ることができます。
 「垂水」という地名は、古い伝説に由来しており、第14代仲哀天皇(192年〜200年)が、熊襲征伐の途中、重い病気にかかられ、この地の湧き水を死に際に飲まれて、生涯を終えられたという伝説があります。
 それ以来、この湧き水は、どんな日照りが続いても枯れたことはないと言われ、この事から「垂水」の地名が付いたと言う説があります。
 1921年(大正10年)長崎県出身の吉田熊之丞・宮崎市神宮町の医師金丸重平の両氏が、約500本の桜の木を植えたのが、垂水公園の始まりです。
 その後、瓜生野在住の大野恒吉氏が二人の意思を引き継いで、私財を投げ打ち、瓜生野・池内の人々の協力を得ながら、公園の整備や桜の植栽に積極的に取り組まれました。
 この結果、桜の名所としての基礎が形づくられました。
 1951年(昭和26年)旧瓜生野村が宮崎市に合併されると同時に、垂水公園は宮崎市に寄贈されました。
 1955年(30年)、瓜生野・池内地区が中心となって、垂水公園振興会が発足し、現在も、垂水公園振興会によって、毎年、桜祭りなどの行事やモミジの植栽などが行われています。
 1957年(昭和32年)宮崎市が公園として開設し、公園施設の整備を年々行ってきました。
 1994年(平成6年)宮崎市が農免道路から公園に至るまでの市道を「チェリーロード」として整備しました。
 現在では、ソメイヨシノ、ヤエザクラ、ヒカンサクラなど、その数3000本を越える桜が咲き誇る宮崎市の代表的な桜の名所として多くの市民に親しまれています。



2008年12月23日

文教の町・高鍋散策

この日は前述したように、どこまでも透き通った青空が続く絶好のウォーキング日和でした。
 下の写真のように西都市へ向かう途中、北の方角を見れば尾鈴山がクッキリとその姿を現し。
 西の方角を見れば、約50km先の熊本県と境を接するところに鎮座している市房山(標高1721m)を珍しく見る事が出来ました。ただ、こんな素晴らしい天気が続くはずもありません。
 何しろもう師走です。12月第一週の週末は今までの暖かな日和から一転して、北よりの風とともに真冬並みの寒気が流れ込み、気温がグーンと下がる予報が伝えられています。
 今のうちと言うか、今回のロングウォークをもっと楽しまなければなりません。
 そんなこんなで西都市に入り、茶臼原古墳群を通り過ぎて、南へ向かって歩いていると、なにやら上の方がざわざわしています。
 見上げると、約200mほどの上空でしょうか。なんとカラスの大群が一団で移動しています。
 その数何百羽、リーダーのもと丁度私の真上で弧を描いています。
 壮観でもあり不気味でもあります。
 しばらく旋回した後、どこかに飛んでいきましたが、それにしてもあんな大群を見るのは久しぶりのことでした。
 今日のコースは、車では何度となく通っていますが、歩くとなりますと車では分からないことをたくさん発見することが出来ます。
 道沿いの木々を見つめると、木々が紅葉していますし、民家の庭先の花々にも冬近しを感じます。
 また、車では苦にもならなかった道が歩いてみると、こんなにも上ってきたのかとその勾配をあらためて感じます。
 高鍋の舞鶴城跡に車を置いて、時計とは逆周りに四角形の一辺ずつを歩を進め、一周して車のところへ戻るコースでしたが、最後の西都ー高鍋間はさすが車の量が多く、しかも歩道がありませんでしたので、歩くには不向きの道路でした。
 スタートしてから5時間、約24qの行程を歩き終え車に戻った時は陽も沈み、辺りが薄暗くなっていました。

文教の町・高鍋散策

 破損した木の枝は2007年8月の台風5号で落ちた「みやざきの巨樹百 選」の大クスの枝です。
 高鍋町教育委員会によりますと、昭和26年に国の天然記念物に指定されました高鍋のクスですが、県内でも珍しい古木で旧八幡神社の神木でした。
 明治以降に宮崎県山林会指定の老樹名木となっていて樹齢は500年と言われています。
 高さ16メートルとそう高くはありませんが、根周りはなんと13メートルもあります。
 いわばズンドウと言った樹様です。
 地上約2メートルの高さから南北の二方向に幹が分かれていましたが、片方の幹が前述のように台風で落ちてしまいました。
 それまでは枝張りが東西20メートル、南北に28メートルあります。
 これまで幾多の台風で損傷を受け今もワイヤーで補強されていて痛々しい姿を見せていますが、かろうじて古木の風格を保っています。

黒水家住宅の紹介
 黒水家住宅は、高鍋藩秋月氏の家老職を勤めた黒水家の家で、家老屋敷と呼ばれています。
 黒水家は代々藩の兵法家としての家柄です。越後流兵学の大家佐久間入道頼母が高鍋に下ったのは、元禄6年(1693年)のことで、黒水次右衛門はこの頼母に師事し、元禄14年4月3日、兵学の免許を受けました。
 黒水家住宅は主屋、籾蔵、土蔵、みそ蔵が建ち並び、全面に土塀が建ち、武家屋敷としては貴重なものです。
 土屋は鍵座敷になった寄棟造り茅葺で玄関に向かって左に居間をとり、右へ順に10畳の控の間、8畳の次の間と続き、本格的な床、書院をつけた風格のある上の間が鍵となって前方に突き出しています。
 もともとは台所部分は別棟になって後方に接続していたと思われます。
 このように一部改造はありますが、数少ない武家屋敷であり、建築年代は資料が少なくはっきりしませんが、構造形式などからみて文化文政頃(1804〜1827)のものと推定されています。
 籾蔵は、藩政時代に藩の籾蔵として旧児湯郡役所の南側に建っていたものを明治初期に譲り受け移築したものと言われています。
 この籾蔵は西南の役の際、9列士が薩摩軍によって監禁された建物です。
 みそ蔵はみそなどをつくり貯蔵するのに使用し、重要な品物は土蔵に保管していました。
 茅葺屋根をもつ武家屋敷としては高鍋における極めて貴重な文化遺産です。

2008年12月20日

文教の町・高鍋散策

高鍋町は、秋月氏2万7千石の城下町です。
 その中心を成す舞鶴城は、町西部の小高い山の上にありましたが、石カベや階段が残る程度で昔の面影はありません。
 城址に隣接して資料館があり、舞鶴城や秋月氏にちなんだ数々の資料、当時の高鍋藩を取り巻く情勢を知ることが出来ます。
 また、敷地内には萬歳亭という屋敷があります。
 この屋敷は秋月種樹公の住家で、明治24年、宮田の三好退蔵氏の住宅をうつして建てられましたが、昭和17年、本屋約60坪(200平方メートル)を新築(秋月邸と言い現在は取り崩した跡に歴史資料館が建てられています)し、別棟8坪(26平方メートル)はそのまま残し屋根を瓦に改め、種英公が書斎として愛好されました。
 その後、この別棟(萬歳亭)は内部を改修し、台所、湯殿などもつけられましたが、昭和62年2月に老朽化に伴い保存も含め復元されました。
舞鶴城灯籠まつりは、高鍋藩の全盛期を築かれた第七代藩主秋月種茂公を偲び、種茂公の創設された藩校「明倫堂」の教えに明かりを灯すことを目的に始まりました。
 種茂公は、18歳の若さで「間引き」を止めさせるため、農家の子供3人目からは1日米2合
または麦3合を支給するという児童手当を世界に先駆けて行われるとともに、産業の振興にも力を注がれ、江戸時代の名君のひとりに数えられています。 
 また、種茂公が人材の育成のため創設された藩校「明倫堂」では、「各人が自分の行動規範を確立すること」という心の教育が行われました。
 家庭内暴力や幼児虐待が頻繁に行われている今日、今一度「明倫堂」の教えを思い起こし、「心の教育」を町内外に広くアピールしようというものです。
 舞鶴城灯籠まつりは、秋月家が、もともと中国後漢の皇帝の末えいであることから石灯籠を中国より輸入し、舞鶴灯籠として舞鶴公園に設置したことが起源となっています。

2008年12月18日

宮崎県南西部のクルソン峡の紅葉

また、この川は、熊本県の白髪岳に源を発しています。
 狗留孫(クルソン)峡は比較的その源流に近い所に位置しています。
 峡谷に沿って道路が通っています。
 峡谷の入り口には、地面から橋の部分まで約100mはあろうかと言う真新しい橋がこの渓谷をまたいでいます。
 そこから約10kmに渡って、素晴らしい景観を楽しむことが出来ますが、峡谷に入った途端に、道は未舗装の砂利道になります。
 前夜からの雨で道には水溜りができ、道の凹凸も激しく車の底を何度も地面に打ちつけるほどの悪路が続いています。
 晴れていて時間があれば、当然歩くにピッタリの道路ですが、普通車などでは少し無理があるようです。
 この日のような雨上がりの日は特に、大変で車体はドロをかぶった状態でした。
 紅葉はほぼ10kmに渡って、途切れることなく続いています。
 対岸の山はところどころ絶壁があり、紅葉と上手く溶け込んで、ため息が出るほどの美しさです。
 ただ、この日、麓は青空が見えるほど天気が回復しましたが、奥へ入るにしたがい霧に覆われ、上空も暗く、あまり満足のいく写真を撮ることが出来ませんでした。
 いつか機会を見て歩いてみたいと思いました。

2008年12月17日

宮崎県南西部のクルソン峡の紅葉

クルソンは漢字で狗留孫と書きます。
 お釈迦様になる以前の仏陀の名前からとられ、山伏も修行をしたという霊地です。 
 神武天皇も参拝され、ここに五穀の種をまかれたと言う言い伝えが残っています。
 渓谷の奥深いところには、臨済宗の栄西上人が建立したと言われる日本で二番目に古い禅寺の「端山(はやま)寺」の跡も残っています。
 えびの市内を流れる川内川の支流が造り上げた峡谷は変化に富み、上流の通行止めと表示されたところまで飽きることがありません。
 特に今の時期の紅葉は絶景。水も清く美しく、また、ヤマメの生息地で渓流釣りの名所としても知られています。
 また、国の天然記念物のオオサンショウウオも生息しています。

2008年12月16日

宮崎県南西部のクルソン峡の紅葉

 クルソン峡と言う名前は聞いたことはありましたが、具体的にどこにあるのかどのくらいの規模があるのか、ほとんど私の知識はゼロでした。
 えびの市に行った時、案内板を見かけたことがある程度で、あまり興味はありませんでした。
 それが、2008年11月24日(月)の休日に、雨が上がったばかりで自宅で横になり、テレビを観ていたら、この渓谷一帯で今、紅葉が見頃と紹介していました。
 その様子をテレビで観ると、山が萌えているようで、渓谷沿いに約10kmと、かなりの距離に渡って紅葉を楽しむことが出来るとのことでした。
 「さぞかし綺麗だろうなあ」と、ふと出かけてみたい衝動に駆られました。
 そう思うと同時に、すぐに車に飛び乗りえびの市を目指していました。
 テレビで紹介していたのが、正午のニュースですのであまり時間がないと言うこともありましたが、全くの行き当たりバッタリの行動です。
 この日の日中は前夜来の雨がようやく上がり、雲が徐々に抜けている最中で天気は回復に向かっていました。
 道中、雲の切れ間から太陽も顔をのぞかせていました。
 「この分なら紅葉の名所をバッチリと観ることが出来るだろう」と、あれやこれやイメージしながら車を走らせました。」

2008年12月15日

宮崎県の都井の岬馬観て歩き

岬周辺は年中暖かく、色々の花が咲きますが、上の写真の如くツツジが三輪には驚きました。ツツジはてっきり春の終わりから初夏にかけて咲くものと思っていましたので。また、ツバキが樹木いっぱいに花を付けています。道端にはツワブキの花が自生しています。まさに自然が溢れた観光地と言えましょう。ただ、それでも昔の賑わいからすると、今はその面影もありません。観光バスが列を成した30年前、都井岬一帯には、ホテルが軒を連ねていました。しかも、どのホテルも満員でわが世の春を謳歌していた時代がここ都井岬にもあったのです。今ではそんなホテルも宮崎交通が経営していてその後を引き継いだ「都井岬観光ホテル」1軒を残すのみ。
 民宿もすべて閉鎖され他に泊まれるところは、国民宿舎とユースホテルくらいです。
 いつかこの地が復活することを夢見ています。
 ところで岬馬は都井の自然の中で生まれ、育ってやがてその一生を終えます。岬馬は死期が迫ると何処へともなく姿を隠し、その死を目撃することはもちろん、その屍を発見することも至難のことです。
 ハーレムを作り権勢を誇った種雄馬も14〜15歳になると、その力は衰え雌馬は1頭、また1頭と去っていき孤独となった雄馬は自然に帰っていきます。
 それが自然に暮らす動物界のオキテなのでしょう。

宮崎県の都井の岬馬観て歩き

この都井岬の目玉は、もちろん岬馬ですが、この一帯には多くのサルが生息しています。
 おおよそ100匹が群れを作ってあちこち移動しています。
 サルは都井へ来る途中にある幸島の文化ザルが有名ですが、本土側でも都井までの途中、道路へ出てきて観光客にエサをねだる姿を見かけたことがあります。
 また、この岬は太平洋に突き出ていますので見通しがよく海抜255m地点にある灯台からの眺望は抜群です。
 今回は、灯台まで歩きましたが、入場料が200円と聞き手前で(灯台の)写真を撮り引き返しました。また、上の写真のように灯台へ向かう途中から右ヘ折れて、下って行くと、海岸近くに御崎神社があります。
 この神社は海難除けと縁結びの神として有名でたくさんの老若男女が訪れます。
 神社の下の太平洋は暖かい黒潮が流れていて、日南海岸の中でも特に暖かく、周辺には熱帯性の植物のソテツが自生しています。
その数3000本。まさに圧巻です。
 私はこれまでこの神社の横を通り、神社真下からの釣りをした経験が何回かありますので、今回は神社訪問をパスしました。
 と言うより、神社までの坂道が急で右ヒザが傷むコンディションではあまり無理はしたくなかったと言うのが本音です。

2008年12月13日

宮崎県の都井の岬馬観て歩き

ここから1q先の「駒止めの門」を通過すると、岬馬の生息域になります。
 岬一帯560ヘクタールの広大な自然の中に、約100頭が放牧され、ほぼ自然の状態で生息しています。草原で草を食んだり、飛び回ったり、時には道路端まで出てきて観光客に食べ物をねだる姿が見られます。
 もう都井岬まではすぐそこです。
 しばらくすると辺りがパッと開けて半島の南側の海が見えてきました。
 今日は視界が素晴らしく良く眼下に広がる黒井の港や太平洋が鮮やかです。
 左側は先ほどまでの杉木立から草原へと変りました。
 小高い丘陵の中腹に草を食む馬が数頭。
 これが、天然記念物の岬馬です。道路際からかなり距離がありますが、カメラに収めました。(上部の写真です。)
 岬馬は昭和28年11月14日に国の天然記念物に指定されました。
 普通の馬と比べるとやや小ぶりで、体高と体長がほぼ等しくズングリとして胴が短いのが特徴で日本特有の在来馬です。
 在来馬として日本で有名な種は、木曽馬や北海道の道産子がいます。
 いずれも、今から2000年前の縄文式時代後期から弥生時代中期にかけて中国大陸から導入された馬がその起源とされています。
 ズングリムックリしていますので、やけに頭が大きい印象を受けます。
 毛の色は青色、河原毛、鹿毛などがあり、ヒヅメは小さく頑丈に出来ています。
 体質は強健で粗食でも生きていけるよう、訪れた観光客がエサを与えることは禁じられています。
 南国の温暖な地で自然の厳しい環境でないのが幸いしているのか、一般的に寿命が長く繁殖力が旺盛で長寿でも妊娠して子馬を生みます。
 性質は賢く感受性が強く、たまにですが物事に驚くと興奮して蹴られることもありますので、ところどころに「馬に近づくと危険」と言う看板が立てられています。
 この一帯は草原域を除くとかなり険しいガケや深い雑木林がありますが、ここの馬はそんなところにも平気で入っていきます。
 先ほども書きましたが、逆に観光客が集まるところにも出てきてエサをねだったりと、非常にフレンドリーなところも持ち合わせています。

2008年12月12日

宮崎県の都井の岬馬観て歩き

恋ヶ浦から南の半島部分も道路が高い所に位置し、抜群の眺望を有していますが、ここも未だに復旧せず不通状態で、車は手前から山道へと入り狭い道路を迂回して、南隣の漁港・宮野浦集落へ抜けることになります。
 今回は、この宮野浦の漁港の広場に車を置いて、都井岬を目指すことにしました。時間は丁度正午を差しています。
都井岬灯台は、宮野浦港の南方から海に突き出た半島の先端にありますが、距離にしてここから約11q、標高が250mの山の頂上付近にあります。
 一旦、半島の付け根に当たる西方に進み上へ上へと進みながら目的地を目指すことになります。
 最悪だった道もこの集落からは全く見違えるような片側一車線へと広がり、大型車も楽に通れ、しかも、歩道も付設されたごく普通の道路と化します。
 ただ、勾配が急で海抜がゼロの地点から平坦なところはなく、ほとんど上りが続いていきます。
 車は至って少なく、宮野浦から北部が最悪ですので、追い抜いて行く車も地元の人や狭い道を南下して都井へ向かう観光客くらいのものでしょうか。
 都井へは、この道路より宮崎県の最南端のマチ・串間市を経由して行く方がはるかに便利です。
 その串間からの合流地点までたどり着くと標高もかなり上ってきて道の傾斜もやや緩くなってきました。
 ここまで距離にして約5q。
 額にうっすらと汗が出てきました。
 つい2〜3日前は宮崎の北部の五ヶ瀬やえびの高原は初雪を観測するほど、気温が下がったのですが、こちらは予報では今日は最高気温が18度。
 風もなくコンディションは最高です。
 合流地点が都井岬先端へ通じる付け根のようなところでやや狭くなっています。
 つまりくびれた地形になっています。

2008年12月11日

宮崎県最南端・都井の岬馬

11月22日(日)、朝起きて外を見上げると雲ひとつない素晴らしい天気です。
 こんな日ですので出来るだけ視界が開けて景色が撮り易い海岸線を目指すことにしました。
 久しぶりに朝の早い時間に出発、日南海岸を南へ下りました。
 「道の駅フェニックス」、日南市、南郷町の亜熱帯植物園と、宮崎県南部の観光スポットには見向きもせずに通り過ぎました。
 そして、イモを海水で洗って食べる文化ザルで有名な幸島を横目にさらに南下しました。
 今日の目的地は都井岬の野生馬です。
 幸島からでも、まだ、30qほどはあります。
 さすがこの方面に来るのは、滅多になく丁度10年ぶりでしょうか。
 海岸線に沿って道路が延びていますが、至る所で補修工事が行われていました。
 以前は宮崎交通の大型バスが都井岬まで定期便を走らせ、県外からの観光客を乗せた貸切バスも頻繁に往来していましたが、現在、幸島から南へは、2t以上の車は通れない状態です。
 ここ数年間に襲ってきた台風のために、土砂崩れが発生、道路がえぐり取られたり、土砂で埋まるなど大きなキズ跡が残り、いまだ元の道路に戻っていないのが現状です。
 一時は道路が完全に寸断され、山の中を大きく迂回せざるを得ないなど、日常生活にも支障をきたしていました。
 現在も一部で完全に通行止め状態で狭い山道を通って、隣の集落とつながっているところがあります。
 このため、2t車以上は南郷町から串間市に入り都井へ通じるルートを利用しています。
 海岸を通る国道448号線沿いは、途中に断崖絶壁の素晴らしい景観や、その南にはサーフィン通には、隠れた名所として有名な「恋ヶ浦」ポイントがあります。
 特に、恋ヶ浦は、気候温暖で波の状態が良いことから県外県内を問わず多くのサーファーが年間を通して訪れています。
 また、サーファー専用の民宿も2ヶ所あります。
 愛好家には大自然の中、時を忘れて目の前の海に漬かって好きなサーフィンで至福の時間を過ごすことが出来ます。
 この日も県外ナンバーが数多く見られ、波と戯れる様子をカメラに収めました。

2008年12月07日

久しぶりの宮崎・日南海岸コース

ここからですと、どちらのルートを取るにしてもかなりシビアな状況になるのは、目に見えています。分岐点からでも1時間以上入り込んでいますので、時間を考えると車にたどり着くまでに陽はとうに落ちていることでしょう。
 それより気になるのが雨です。
 珍しく天気予報が当たり、雨粒も時間を追って大きくなっていきます。
 幸いにも道の上空は、シイやカシの大木で覆われ、杉木立もあり、雨を遮りながら進むことが出来ました。
 さらに道の端に、バショウが植えてありましたので、葉を折りカサ代わりに使いましたが、隙間だらけでさして効果はありませんでした。
 帰りはほとんど下り。雨も降っているので、自然足も速くなります。
 しかし、右ヒザが完全ではないので、時々襲ってくる激痛に顔がゆがみます。
 こんな雨の中を、しかも長い距離を歩くのは初めて。さらに秋の夕方は気温も予想以上に下がってきますので、身体にはあまり良くありませんが、仕方ありません。
 はじめの1時間、木々を利用したり、バショウの葉っぱで何とか、濡れるのを最小限に抑えていましたが、それも限界。
 あとは、濡れるに任せて一刻も早く車にたどり着くだけです。
 まだ山中ですが、辺りは暗くなっています。
 「行くか戻るか判断が遅かったなあ」と後悔しても後の祭りです。この程度の山ですので余裕を持って振り返ることができますが、それでも1歩間違えれば大変なことになる矢も知れません。
 そして、周囲が見えない漆黒の闇の中、車にたどりついたときには時計の針が午後7時を回っていました。
 夏の雨と違って、気温の下がる今頃の季節の雨は、身体にいい訳ありません。
 猛省が必要でしょう。
 ただ、その後、風邪や体調不良を起さなかったのがせめてもの救いです。

2008年12月04日

久しぶりの宮崎・日南海岸コース

富土の土地の言葉で話していたらいつの間にか2時30分を回っています。
 気が付けば空は灰色の雲で覆われています。
 やがて分岐店にさしかかりました。そして、そこを右に折れ広野林道へとはいりました。
 地図を見ると確かに伊比井に通じています。
 しばらくは急な上りが続き道の両側は雑木で周りの景色がまるで見えません。
 ここらで、遅い昼食を取ることにしました。
 丁度、沢がありせせらぎの音を聞きながらのおにぎりの味はまた格別です。
 短い休憩を取ってから、林道を北の方向に進みはじめました。
 5分も行かない内にアスファルトで覆われていた道がデコボコの砂利道へと変わりました。 そういえば、伊比井から上った時も、上に行くと道は未舗装で非常に歩きにくかったのを覚えています。
 と、前方から軽トラックが車体を揺らしながら下ってきました。
 私の横でピタリと止まりました。
 2人が乗っていて助手席の男の人が「どこに行くとですか」と聞いてきました。
 「この林道を通って伊比井に下りる予定です。」と答えると、「ヒェー今からじゃと、途中から真っ暗ですが。」・・・・・
 どうやらこの周辺のことには詳しい猟師のようで、荷台にはイノシシ猟用の仕掛けが置かれています。
 「イノシシはダメでしたか」「今日はダメじゃった」・・・・。
 この日は11月15日で、丁度イノシシ猟の解禁日です。
 運転している人が口を開いて「いまからじゃと4〜5時間はかかるですよ。伊比井に着くのはヘタすると真夜中ですよ。引き返した方がいいごつありますが」
 「あと3時間はありますから、大丈夫ですよ。行くところまで行ってみますわ。」
 2人はあきれるような表情で車をスタートさせ、私のところから離れていきました。
 確かに道はデコボコで両脇は雑草で覆われ、整備されている形跡はありません。
 進めば進むほどに坂道も勾配がきつくなってきます。
 空を見上げれば、今にも降り出しそうな雲行きです。
 2人の猟師と別れて20分。時計は3時30分を回っています。
 「とにかく目印を付けたところまででも行こう」・・・・。
 前回来た時、セメントのガケに日付けを付けて目印にしています。
 しかし、なかなかその地点に辿り着けません。
 猟師が言っていたように相当距離があるのでしょうか。
 ここまできても、先へのメドが立ちません。
 「ヨシッ・・全体の景色が見えるところがあったらそこで判断しよう」・・・
 心は引き返す準備を整えています。時計はやがて4時です。
 空からは冷たいモノが落ちてきました。
 最少の装備しか準備していなく、もちろんカサやカッパなどあるはずもありません。
 少々まずくなってきました。
 この辺りが潮時です。「引き返そう」4時を少し回ったところで決断しました

2008年12月03日

久しぶりの宮崎・日南海岸コース

車のあるところをスタートして1時間30分が経過しました。
 周囲の山々を見ても紅葉らしきものは、ほとんど見当たりません。
 昨日の村所―椎葉筋とは、全く雰囲気がちがいます。
 同じ宮崎県でもこんなにも違うものかと驚くばかりです。
 さすが、温暖な黒潮が近くを通る日南海岸沿いです。
 こんな時宮崎は広いなあと実感します。
 杉木立を抜けると民家が何戸か点在しています。
 畑にはツワブキの黄色の花が鮮やかに咲いていました。
 さらに上って行くと、この辺りに住む住民でしょうか、手にカマを持って下ってくるのに出くわしました。
 ご婦人は聞いてきました。
 「どこから来なさったと?」
 「きのうは、北郷から自転車で山を越えてきたと言う青年に会いましたと。丁度この辺じゃったですが」
 「あまり歩いたり、自転車で来る人は見らんもんじゃかい珍しとですよ」
 「今年はイノシシが多いからマムシは見らんですがね」
 「北郷から猟に来る人はおるけんどん、みんなワナかけですとよ」・・・・・
 私が何回かこの道を経験したことを話し、「以前、来た時は元気の良い子犬が走り回っていましたが、まだ相変わらずですか」と尋ねると、「えぇーあの犬を知っちょりますか。ちょっと上の人が飼っていましたが、2ヶ月前に急にいなくなったとですよ。すぐ人に懐(なつ)くもんじゃかい、一緒に付いて行ったとじやなかろうかと話しておったところですが」
 「もう2ヶ月が過ぎたので、別の犬を買ってきたごつありますが。」
 「そなら気をつけて行きなさい」・・・・・・。

2008年12月02日

久しぶりの宮崎・日南海岸コース

さて、いつもですと富土の集落から右に折れ、ほぼ1、5qほど入ったJR日南線の陸橋のたもとに車を置くのですが、今回は国道220号線から右に折れて100mもしないところに4〜5台、駐車できるほどのスペースをみつけましたので、そこに車を置くことにしました。
 もうひとつには出来るだけ歩く距離を稼ぎたかったからです。
 時計は昼の12時30分を過ぎたところです。
 ここからの道は舗装されていて約20km上って下りると、日南市の北西に位置する北郷町に行くことが出来ます。
 今日はとりあえず麓から分岐点のある8q先を目指しそこから、右、つまり北郷方面とは反対の北向きに折れて、広野林道に入り、出来ればそのまま進み富土集落の北隣の伊比井と言う集落に下りる予定でいます。
 しかし、この道は尾根伝いに一度かなり奥まで入り込み遠回りするようにして伊比井へと続いています。
 しかも、足元は急峻で石ころだらけのデコボコ道です。
 今年の春に、伊比井から入り富土へ抜けようとしたことがありますが、あまりに遠く道もかなり荒れていましたので途中で引き返しました。
 今回は、逆周りでの挑戦です。
 時間は午後の1時を少し過ぎたところ、果たして伊比井経由だと、明るい内に車まで戻ってくることが出来るか。
 8q先の分岐点からは未知のルートですので、どのくらい時間がかかるのかはっきりわかりません。 さて、スタートです。
 いつもより1、5kmほど手前に車を置いたので、出だしはしばらく平坦な道が続きます。
 ただ、国道から少し入っただけですが、民家は何百メートルおきにポツンポツンとしかないほんとに過疎地です。
 この辺りも道の両側にはツワブキの黄色の花が咲いています。
 歩き始めて5分、道に沿って流れている川の向こう側の山の土砂が約100m上方からえぐり取られ、川まで達していました。「これは一体何なんだ?」そこからまた、1q位歩を進めたところ、こんどは道の右側の山肌が土石流になって、川まで注ぎ込んでいます。
 そして至るところで小規模な土砂崩れの跡があります。
 もちろん、前回ここを歩いた時はこんな傷跡は全くありませんでした。

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