2009年04月30日

宮崎市高岡町の広沢ダムを歩く@

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   広沢ダム

2009年4月5日(日)、宮崎県地方はこのところ雨の日が多くなっています。
この日も朝起きると、霧が立ち込め視界不良の空模様です。
いわゆる菜種梅雨と言うヤツでしょうか。雨がシトシト降っています。
それと同時にズーッと気温の低い日が続いていたのでサクラもなんとか持ちこたえたようです。
午後から徐々に回復すると予報が出ています。
ところで、2月から3月にかけては、梅やサクラの開花の季節ですので花を写真に収めることに夢中になり、
歩く距離が少なくなってここんところ運動不足ぎみです。
この日は、なんとしても歩こうと前々から決めていましたが、雨の中のウォーキングはあまり得意ではありません。
天気予報に従い、午後からの回復を待ちました。
テレビを観ていると、いきなり「北朝鮮が物騒なものを打ち上げた」と速報が出て画面がそちらに切り替わりました。
60年以上戦争を経験していない日本、言い換えれば、戦中に生まれた人を含めると日本人のほとんどが戦争を経験していない世代に変わってしまいました。
平和を謳歌すると言うより少々平和ボケに浸ってしまっている日本人。少し緊張するのもいいかもしれません。
しかし、テレビやラジオ、新聞の騒ぎようはなんのでしょうか。
特に、テレビの仰々しさは、それこそ北朝鮮の思うツボのような気がします。
日本が騒げば騒ぐほど北朝鮮は調子に乗るのは目に見えています。
日本にとって最も恐ろしいのは、航続距離1300kmと、日本全土がスッポリ射程に入ってしまうノドン1号の大量配備の方と思うのですが・・・・。
そんなことを考えながらテレビを観ていましたが、雨はなかなか止みそうにありません。
仕方なく午後の1時前に自宅を出て、宮崎市西部の高岡町へ向かいました。
今日は高岡町の一番西部の野尻町よりを流れている大淀川支流の浦之名川沿いを歩くことにしました。
とりあえず車の中で雨が上るのを待ってからのスタートです。
本を読んだりラジオを聴いたりしながらジッと待つこと2時間。
ようやく雨が上りましたが、時計の針はすでに3時を回っています。
この時間からではそんなに長くは歩けません。
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2009年04月29日

宮崎のサクラを一挙紹介J西都〜村所米良街道と桜

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と、何気なくダム湖の上を見上げるとサクラが集中して植栽されているではありませんか。
以前は確かなかったはずですが・・・。それとも気づかなかったのでしょうか。
いずれにしても記憶がありません。
対岸ではありますが、すぐ上流に米良稲荷橋と言う名の橋が架かっていてそのたもとから、そのサクラの咲いているところまで行くことが出来るようです。
車が十分通れるほどの道がありますので行ってみることにしました。
この道は、約2km先に児原(こはる)稲荷神社があり、そこへ続いていると案内板に書いてあります。
サクラの群生は入り口から500mほど上ったところにありました。
花木はまだ若くそんなに年月が経っているようには思えません。
しばらく来ない間に植栽されたのでしょう。
この辺りは地上からは150m以上は上ってきています。
車を降りてのぞくと丁度サクラの群落の下に青色のダム湖が浮かび上がり素晴らしい光景が広がっています。
写真を撮るには最高のシチュエーションです。
今日はこれだけで十分の収穫です。それだけ素晴らしい眺めです。
写真を撮り終わり、さらに村所方面に車を進めましたが、やっぱりどの花木もピークを過ぎていて絵にはなりません。
進めば進むほど沿道の並木の密度は濃くなっていきますが、来るのが4〜5日遅かったですね。
で、結局途中で引き返しました。
不思議なものでより暖かいはずの西都原古墳のサクラがまだ見られる状態なのに、奥に入り気温が低いはずの地域のサクラが終わっているのですから・・・。自然界の出来事ですから単純にはいかないようです。帰る途中、気になっていたところがありましたので寄って見ることにしました。
それは、一ツ瀬ダムの登り口にある瓢箪渕(ひょうたんぶち)と、言う集落の下流にまだ出来たばかりのトンネルを通ってひむか神話街道に入ってすぐのところにあります。
そこは吐合地区と言って、過疎が進み今では住んでいるひとはほんのわずかの限界集落です。気になっていたのは、その集落にあり、昭和62年4月1日に廃校となった西都市立岩井谷小学校の光景です。
廃校後しばらくはキャンプ場として賑わっていましたが、今は校庭の教員住宅をはじめ、校舎もひっそりと静まり返っています。
ただ、いつ植えたのか分かりませんが、サクラの大木数本が主のいない校庭脇や教員住宅の庭に鮮やかな花びらを咲かせていました。
なんだか切なくなる光景です。
posted by 日向夏 at 23:06| 宮崎 ☀| Comment(0) | TrackBack(2) | 日記健康が一番!愉しい山道散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月28日

宮崎のサクラを一挙紹介I西都〜村所米良街道と桜

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 西都原古墳のサクラが、なんとかギリギリで間に合いましたので、国道219号線・米良街道のサクラは十分に見れるはずです。
米良街道は西都市から九州山地へと延びていて、宮崎県の一番小さな村・西米良村の中心地村所まで約45kmあります。
前半部分には九州最大規模の一ツ瀬ダムとそれに続くダム湖があり、変化に富んだ湖は風光明媚な名所として多くの人々が訪れます。
ダム湖河畔のところどころにサクラが植栽されていますが、前半部分は、そんなに目立つほどではありません。
さらにダム湖沿いに西へ西へ走っていくと、長いトンネルがあります。銀鏡(しろみ)トンネルです。
このトンネルの丁度真ん中に境界線があり手前が西都市、その向こうが西米良村になります。
トンネルを出ると、いきなりサクラの木が増えてきます。
ただ、少し峠を過ぎた感じで葉桜が多くなっています。
もう一本トンネルが続けざまにあり、ここを過ぎると越野尾と言う集落です。
サクラの時期に訪れるのは10年ぶりくらいでしょうか。
以前通った時は、街道沿いに延々とサクラ並木が続いていたような印象が残っていたのですが、今回通って見るとそうでもありません。
記憶違いでしょうか。
posted by 日向夏 at 23:20| 宮崎 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記健康が一番!愉しい山道散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月27日

宮崎のサクラを一挙紹介H宮崎市高岡町天ヶ城公園

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        天ヶ城公園
天ヶ城公園は、宮崎市高岡町の中心部西方、丁度国道10号線の西側に横たわる標高120mの小高い山=城山一帯を指します。
天ヶ城公園の一番の魅力は、なんと言っても「城」「サクラ」「ツツジ」のコントラストです。
その3つに付け加えるとするならば、「眺望」でしょう。
3月下旬にサクラが満開を迎え、花々が散り始めると深紅も鮮やかなクルメツツジやヒラドツツジが見頃を迎えます。
サクラは主にソメイヨシノが植栽されていて、満開時には国道10号線のバイパス手前から公園への取り付け道路に沿って、花のトンネルが訪れた人を頂上へと導いてくれます。
山の中心部側の山肌と、頂上周辺の多目的広場に約1300本、樹齢40〜50年の立派な大木が薄ピンクの花を咲かせます。
特に多目的広場の休憩所を兼ねている「あずまや」周辺には、クルメツツジが整然と植えられています。
今年は暖冬の影響で7分ほど花を咲かせていて、サクラのピンクと真っ赤なツツジの対照が際立っています。
また、多目的広場の後背地に威風堂々と立つ歴史民族資料館を訪れますと、この天ヶ城の歴史を知ることができます。
慶長5年(1600年)関が原の戦いで西軍に属した第17代島津家当主・島津義弘は、戦いに敗れ、日向細島に上陸後帰国し、東軍の伊東勢の追撃に備え、久津良名(現高岡町中央部)を城地に取り立て、城を「天ヶ城」と命名し、島津氏と関係の深かった地域から武士多数を強制移住させました。
そして、比志島紀伊守国貞を初代地頭に任命し、「高岡」を前線の要としました。
これが、いわゆる山城・「高岡郷」の創設とされています。
「高岡郷」は、標高が120m余り、見晴らしの良い自然環境に恵まれ、山城としては理想の場所に築城されましたが、その後、元和元年(1615年)一国一城令で天ヶ城は廃城となりました。
頂上からの眺めは抜群で、眼下に雄大な流れの大淀川、その川筋をたどると、遠くに宮崎市の市街地から日向灘が一望できます。
一方、西に目を転じますと霧島連山がくっきりとその姿を映しています。
また、この天ヶ城公園には、たくさんのスポーツレクリェーション施設が整っています。
比較的低部には室内体育館や軟式野球場からローラースライダー、パターゴルフ場にレストハウスの天ヶ城茶屋。
歴史民族資料館を覗きますと、江戸時代初期の高岡周辺の勢力図や当時の人々の暮らしぶり、大淀川との係わりなどが紹介されていて、この地方の中世から現代に至るまでの様子を詳しく知ることができます。
例年、3月下旬から桜祭りが開かれ、サクラの花がライトアップされ、和太鼓の演奏やフリーマーケット、地元獲れの物産展などさまざまなイベントが用意されています。
さらにツツジ祭りと何度来ても飽くことのない素晴らしいこの天ヶ城は、宮崎の中心部から20分ほどで来れますので、たくさんの花見、行楽客が訪れ年中賑わっています。
ただ、今年は思いのほかサクラの開花が早まったため祭りの実行委員会の方々も花が持ってくれるようヤキモキしながら祭りの開催を待っています。
posted by 日向夏 at 23:34| 宮崎 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記健康が一番!愉しい山道散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月26日

宮崎のサクラを一挙紹介G都城石山観音池公園

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3月下旬、国道10号線から公園へのアクセス道路に入りますと、満開を迎えたサクラの大木が覆い尽くさんばかりに道の両側からせり出していました。
太陽の光線をもさえぎる様はまさに桜のトンネルそのもので、訪れた人々を圧倒します。
このサクラ並木は正面入り口から約200mのところにあるT字路から両方向に延びています。
3月24日(火)、私が訪ねた日は、この公園もサクラがまさに満開の、一番の見頃を迎えていました。
観音池脇にある駐車場に車を停めて、池に出てみますと、そこはまばゆいばかりのサクラの花の楽園。
淡いピンク色をした花びらが池の畔を埋め尽くしています。
観音池の形状が変化に富んでいて、サクラの花をより一層引き立たせています。
例年ですと、サクラの盛期は3月の下旬ですが、開花時期がいつもより10日ほど早まったため、あるはずの露天もほんの数台程度。
訪れる人々も今は、まだまばら。
すべてはこれからですが、祭りが始まるまで花が何とか持ってもらうことを祈るばかりです。
ところで、観光協会によりますと、この観音池は、享保年間に灌漑用水池として築造されたもので、たびたびの堤防決壊により天保12年(1842年)に一大修復がなされ、今の形になったと言われています。
現在もその時の名残の水門と水神碑が残っています。
池には両岸を結ぶ橋が架けられていてその名も「虹のかけ橋」。
サクラの季節には絵のような写真が撮れるこの池のシンボル的な存在です。
サクラの木は公園内いたるところに植栽されていて、その数約3000本。
国道入り口から取り付け道路や観音池周辺は比較的樹齢の高い大木が多く、公園総合案内所を中心とした区域には比較的若木が、また山肌にも若木が植えられていています。
特に、山肌の植栽はまだこれからと言った状態ですが、植栽が終わる頃には山全体がピンクに染まるような素晴らしい光景を目にすることが出来るでしょう。
観音池公園の一番のセールスポイントは、一年中楽しめるその設備の充実さもさることながら、交通の便のよさ。
地元都城はもとより宮崎や小林、日南、鹿児島などからたくさんの人々が四季を問わず訪れます。
posted by 日向夏 at 23:43| 宮崎 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記健康が一番!愉しい山道散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宮崎のサクラを一挙紹介F都城石山観音池公園

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観音池公園
少し前まで石山観音池公園と呼んでいましたが、最近は冠をはずして観音池公園と言うのでしょうか。
所在地は都城市高城町石山3966ですが。
まぁ、そのことは別にして、最近のこの公園の充実ぶりはすごいですね。
正面入り口から続く圧倒されるほどのサクラ並木、変化に富んだ観音池、観覧車やゴーカート、ボート、電動カーなど、数々の遊具施設、温泉などの健康増進センター、キャンプ場、オートキャンプ場、野外ステージ、流水プール、野球場、体育館、多目的広場、テニスコート、さらに広域農道を隔てた東側の小高い山には草スキー、スライダー、アスレチック遊具が揃っています。
二人乗りのリフトを上っていくと、遠く霧島連山や都城盆地などの絶景をを見渡せる展望台が設置してあります。
1日ではとても回り尽くせないほどの施設を持つ観音池公園。
ここはまさに都城のドゥースポーツの拠点的存在と言うことができます。
posted by 日向夏 at 00:02| 宮崎 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記健康が一番!愉しい山道散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月24日

宮崎のサクラを一挙紹介E小林の「まきばの桜」

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しかし、牧場のサクラは市民の記憶から消えたわけではなく昭和50年の市制30周年を記念して募集された市の花としてコスモスとともにサクラが選ばれました。
これを受けて「まきばのサクラ」の復活への動きが急となり昭和63年から市の事業として整備が進められ、現在も昔の栄華に少しでも近づける努力が続けられています。
そして、平成20年、植栽100年を迎え「まきばのサクラ祭り」が復活しました。
今年は「サクラ祭り」復活2年目です。
牧場に咲いたサクラの花。一世紀を経た春。100年にもおよぶ盛衰を経て、ようやく昔の形を取戻しつつあるサクラが少しずつ大きく大きくなろうとしています。
たくさんの牛が遊ぶ牧場があるこの「まきばのサクラ」一帯。
後方には霧島連山のひとつ、標高1344.1mの夷守岳が控えその裾野は、昭和48年4月8日に第24回全国植樹祭が、昭和61年9月16日には第10回全国育樹祭が開催されました。
皮肉なことにこれらのイベントを契機に北霧島の整備が急速に進みました。
それらは、「ひなもり台県民ふれあいの森」として、森林学習展示館のほか、芝生広場、森林体育館、テニスコート、フィールドアスレチック、自然観察路などの施設が整い、さらには公園の一角にオートキャンプ場が整備され、夏のキャンプシーズンには県内外から多くの利用者が訪れる北霧島随一の憩いの里が展開されています。
また、霧島連山を背後に控え、大幡山や大幡池への登山口としても知られ、春の新緑、夏の清涼、秋の紅葉、冬の雪景を求めて訪れる人が絶えません。
これらの施設の先輩格として、今後「まきばのサクラ」の存在は、ますます大きくなっていくことでしょう。
posted by 日向夏 at 23:12| 宮崎 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記健康が一番!愉しい山道散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宮崎のサクラを一挙紹介D小林の「まきばの桜」

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丁度桜並木の真ん中辺りを宮崎自動車道が横切っています。
並木は私が通ってきた「みやまきりしま広域農道」まで延々と続いています。
まさに噂通りのスケールの大きな、それでいて霧島と言う山を控えた雄大さが売り物の桜の名所です。
ざっと目分量で見て全長が5qはあるでしょうか・・・・・。
ところが、小林市のHPで、この「まきばのサクラ」の由緒を見て驚きました。
ここは、ほんの50年前は九州一の桜の名所で、期間中なんと40万人の人々が、桜を観に訪れたと言うのですから、にわかには信じ難い数字であり賑わいです。
当然、全国的にも桜の名所として名が轟いていたことでしょう。
全く知りませんでした。
「まきばの桜」が産声を挙げたのは、さかのぼること約100年も前のことです。
当時、この地で軍馬育成がさかんに行われていて、その軍馬補充部小林分厩所の所長・二宮信中尉が、牧場の沿道に植栽したのが始まりとされています。
植栽から約20年で桜並木は大きく成長、見事な花を咲かせるようになりました。
当時は「軍馬の桜」と呼ばれていました。
大正から昭和の初めにかけては小林商工会が観桜会を開催、その後一般にも開放されると、桜のトンネルを堪能出来る「軍馬の桜」として、広く九州一円にまで知られるようになり「さくら祭り」は大いなる賑わいましを呈しました。
列車は臨時便を増発、花見列車を仕立てて花見にやってくるほどの大盛況ぶりでした。
戦中戦後の一時期、祭りは途絶えましたが昭和22年復活した桜祭りには大群衆が押し寄せたと言います。そして、敗戦により軍馬補充部の廃止とともに、名称も「まきばの桜」と変わりました。
しかし、栄華を誇っていたこの桜並木も、暗黒の時代を迎えることになります。
九州一とうたわれたこの「まきばの桜」が50年前から衰退していく道をたどり始めました。
普通、ソメイヨシノの樹齢は60年と言われています。
100年前、植栽された花木が寿命を迎え、昭和30年を境に次々と枯れていきました。
小林市も手をこまねいていたわけではありません。
補植や植え替えなどによって昔の桜並木の復活に力を注ぎました。
しかし、連作を嫌うソメイヨシノは思うように成長してくれません。
老木と若木が大半を占め昔の景観を取戻すことはなかなか出来ません。
加えて小林市は昭和48年、天皇皇后陛下を迎えての全国植樹祭の開催や宮崎自動車道の建設などで、サクラどころではなくなり、「サクラ祭り」は中止されました。
サクラの衰退とともに、小林の観光は昭和38年開業した、生駒高原のコスモス園へと移っていきました
posted by 日向夏 at 22:34| 宮崎 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記健康が一番!愉しい山道散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宮崎のサクラを一挙紹介D小林の「まきばの桜」

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丁度桜並木の真ん中辺りを宮崎自動車道が横切っています。
並木は私が通ってきた「みやまきりしま広域農道」まで延々と続いています。
まさに噂通りのスケールの大きな、それでいて霧島と言う山を控えた雄大さが売り物の桜の名所です。
ざっと目分量で見て全長が5qはあるでしょうか・・・・・。
ところが、小林市のHPで、この「まきばのサクラ」の由緒を見て驚きました。
ここは、ほんの50年前は九州一の桜の名所で、期間中なんと40万人の人々が、桜を観に訪れたと言うのですから、にわかには信じ難い数字であり賑わいです。
当然、全国的にも桜の名所として名が轟いていたことでしょう。
全く知りませんでした。
「まきばの桜」が産声を挙げたのは、さかのぼること約100年も前のことです。
当時、この地で軍馬育成がさかんに行われていて、その軍馬補充部小林分厩所の所長・二宮信中尉が、牧場の沿道に植栽したのが始まりとされています。
植栽から約20年で桜並木は大きく成長、見事な花を咲かせるようになりました。
当時は「軍馬の桜」と呼ばれていました。
大正から昭和の初めにかけては小林商工会が観桜会を開催、その後一般にも開放されると、桜のトンネルを堪能出来る「軍馬の桜」として、広く九州一円にまで知られるようになり「さくら祭り」は大いなる賑わいましを呈しました。
列車は臨時便を増発、花見列車を仕立てて花見にやってくるほどの大盛況ぶりでした。
戦中戦後の一時期、祭りは途絶えましたが昭和22年復活した桜祭りには大群衆が押し寄せたと言います。そして、敗戦により軍馬補充部の廃止とともに、名称も「まきばの桜」と変わりました。
しかし、栄華を誇っていたこの桜並木も、暗黒の時代を迎えることになります。
九州一とうたわれたこの「まきばの桜」が50年前から衰退していく道をたどり始めました。
普通、ソメイヨシノの樹齢は60年と言われています。
100年前、植栽された花木が寿命を迎え、昭和30年を境に次々と枯れていきました。
小林市も手をこまねいていたわけではありません。
補植や植え替えなどによって昔の桜並木の復活に力を注ぎました。
しかし、連作を嫌うソメイヨシノは思うように成長してくれません。
老木と若木が大半を占め昔の景観を取戻すことはなかなか出来ません。
加えて小林市は昭和48年、天皇皇后陛下を迎えての全国植樹祭の開催や宮崎自動車道の建設などで、サクラどころではなくなり、「サクラ祭り」は中止されました。
サクラの衰退とともに、小林の観光は昭和38年開業した、生駒高原のコスモス園へと移っていきました
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2009年04月22日

宮崎のサクラを一挙紹介C小林の「まきばの桜」

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「まきばの桜」は、そこから10分余りで到着です。
あまり仰々しく案内板は出ていませんが、石の碑から大変歴史を感じる桜の名所と観受けました。
まだほんの一部しか見ていませんが、思っていたより花木が小ぶりで正直なところちょっと拍子抜けです。花のトンネルと言うには似つかわしくありません。
写真を撮っていましたら、着物を着た熟年のご婦人が話しかけてきました。
しばらく、話しを聞いていましたが、このサクラの名所は、昔大変な賑わいを呈していたことやサクラの木はその当時道を覆い、まるでトンネルだったと言うことなどを詳しく話してくれました。
例の花木が小さいことも聞きましたところ、以前植えていた花木は100年以上も前に植えたもので、ほとんどが寿命を迎え枯死し、今の木は植栽してまだ日が浅いなど、大変親切に教えていただきました。
何でも、ご主人は海上自衛官だったそうで、今は一人身。昨年は日本の豪華客船「飛鳥」で、100日間の世界一周をされたとのことで、その時の色々な出来事を聞かせて頂きました。
さて、今日は高原町から広域農道を利用してきました。
小林市の市街地からですと、JR小林駅の西側の踏み切りを渡って、コスモス牧場への看板を目印に、比較的簡単にたどり着くことができます。
霧島連山を背景に細野中学校辺りから桜並木が霧島に向かって一直線に延びています。
途中、T字路を左折したところがこの桜の園の中心地、広い駐車場が設けてあります。
ここも例外ではなく桜の開花が早過ぎ、訪れたこの日は、市の職員や観光関連の人たちが祭りの準備に追われ、やっとボンボリが付けられたところでした。
この駐車場から西へ並木は延び、その途中から左折すると目の前に夷守岳が飛び込んできます。この通り沿いに、家畜改良センター宮崎牧場の看板が掛かっています。つまり、この道沿いで牧場がある風景を見ることが出来ます。
posted by 日向夏 at 22:36| 宮崎 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記健康が一番!愉しい山道散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月21日

宮崎のサクラを一挙紹介B小林市のまきばの桜

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牧場(まきば)の桜
この名前は以前から良く知っていました。
しかし、なかなか開花時期とタイミングが合わず、小林市の霧島連山の麓にある桜並木と言うことぐらいしか知識はありませんでした。
3月24日(火)、野球のWBCを五回までテレビ観戦して、いざ出発。
国道10号線を南下、途中高岡町から268号線に折れ、さらに小林市の手前の野尻町から霧島方面に左折、麓町の高原町から「みやまきりしま道路」と言う山の麓を通る広域農道から一路、桜の園を目指しました。高原町は湯の町で知られています。
至る所に温泉があり、湯治客がたくさん訪れます。
しかしながら、いずれの温泉も規模が小さく、農作業を終えた地元の農家のご主人や奥さんが疲れや肩こりを治しに湯に漬かりにくるような湯治場的な印象で知名度は今ひとつです。
泉質には素晴らしいものがありますので、もう少しPRに力を入れれば、もっともっとたくさんの客が訪れるのになあと、いつも思っています。
ところで高原町から小林に向かっていると、左手前方に長い長い桜並木が見えてきました。(下の画像)
全長はおよそ700m。
道の両脇のサクラが満開を迎え、花のトンネルがこれまた最高です。
が、なんと言う所か案内板がないのでわかりません。
まさかこれが「まきばの桜」ではないでしょいうが。
と、一台の車が停まりました。
年配のご夫婦が下りて来ましたので聞いてみますと、ここは「宮崎県酪農支場」と言うそうで、まだ高原町内と教えてくれました。
ご夫婦はこの美しい桜をカメラに収めに毎年訪れるとのことで、以前は気軽に支場まで入ることが出来ていたと話し、今は入り口に鍵がかかっている状態で、中に入れないことを残念がっていました。
幹が大きく樹齢も相当いっているのでしょう。
歴史を感じる桜並木です。開放しないのが不思議でなりません。
posted by 日向夏 at 23:49| 宮崎 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記健康が一番!愉しい山道散策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月20日

宮崎のサクラを一挙紹介A都城市高城町観音池公園

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   都城市観音池公園のサクラ
観音池公園
少し前まで石山観音池公園と呼んでいましたが、最近は冠をはずして観音池公園と言うのでしょうか。
所在地は都城市高城町石山3966ですが。
まぁ、そのことは別にして、最近のこの公園の充実ぶりはすごいですね。
正面入り口から続く圧倒されるほどのサクラ並木、変化に富んだ観音池、観覧車やゴーカート、ボート、電動カーなど、数々の遊具施設、温泉などの健康増進センター、キャンプ場、オートキャンプ場、野外ステージ、流水プール、野球場、体育館、多目的広場、テニスコート、さらに広域農道を隔てた東側の小高い山には草スキー、スライダー、アスレチック遊具が揃っています。
二人乗りのリフトを上っていくと、遠く霧島連山や都城盆地などの絶景をを見渡せる展望台が設置してあります。
1日ではとても回り尽くせないほどの施設を持つ観音池公園。
ここはまさに都城のドゥースポーツの拠点的存在と言うことができます。
3月下旬、国道10号線から公園へのアクセス道路に入りますと、満開を迎えたサクラの大木が覆い尽くさんばかりに道の両側からせり出していました。
太陽の光線をもさえぎる様はまさに桜のトンネルそのもので、訪れた人々を圧倒します。
このサクラ並木は正面入り口から約200mのところにあるT字路から両方向に延びています。
3月24日(火)、私が訪ねた日は、この公園もサクラがまさに満開の、一番の見頃を迎えていました。
観音池脇にある駐車場に車を停めて、池に出てみますと、そこはまばゆいばかりのサクラの花の楽園。
淡いピンク色をした花びらが池の畔を埋め尽くしています。
観音池の形状が変化に富んでいて、サクラの花をより一層引き立たせています。
例年ですと、サクラの盛期は3月の下旬ですが、開花時期がいつもより10日ほど早まったため、あるはずの露天もほんの数台程度。
訪れる人々も今は、まだまばら。
すべてはこれからですが、祭りが始まるまで花が何とか持ってもらうことを祈るばかりです。
ところで、観光協会によりますと、この観音池は、享保年間に灌漑用水池として築造されたもので、たびたびの堤防決壊により天保12年(1842年)に一大修復がなされ、今の形になったと言われています。
現在もその時の名残の水門と水神碑が残っています。
池には両岸を結ぶ橋が架けられていてその名も「虹のかけ橋」。
サクラの季節には絵のような写真が撮れるこの池のシンボル的な存在です。
サクラの木は公園内いたるところに植栽されていて、その数約3000本。
国道入り口から取り付け道路や観音池周辺は比較的樹齢の高い大木が多く、公園総合案内所を中心とした区域には比較的若木が、また山肌にも若木が植えられていています。
特に、山肌の植栽はまだこれからと言った状態ですが、植栽が終わる頃には山全体がピンクに染まるような素晴らしい光景を目にすることが出来るでしょう。
観音池公園の一番のセールスポイントは、一年中楽しめるその設備の充実さもさることながら、交通の便のよさ。
地元都城はもとより宮崎や小林、日南、鹿児島などからたくさんの人々が四季を問わず訪れます。
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2009年04月19日

宮崎のサクラを一挙紹介@日南海岸の山ザクラ

2009年3月18日(水)、この日は代休日。朝方から晴れていて暖かい日よりです。
すっかり春めいてきて各地から花の便りが届くようになって来ました。
宮崎県地方は16日にサクラの開花宣言が出ました。
早いところは6分咲きと、見頃が間近になっています。
例年と比べても1週間から10日くらい早い開花です。
今年は2月に暖かい日が続いたのが大きく影響して全国的に開花時期が早まっています。
これも地球温暖化が響いているのでしょうか。
ただ、サクラは暖かいだけでは開花が早くはならないと言いますから、これまた不思議です。
適度に温かい日が続きその間に寒い日が来て、ぬるま湯に漬かった状態のツボミに冷や水をかけて刺激を与えないと、いつまでもボーッとしていて、暖かくても逆に開花が遅れると言うわけです。
そんなことを考えながら、この日は、私もボーッとしていてどこに行こうか決らない状態が続いていました。
と言いますのも、丁度タイミングよくWBC(ワールドクラシック・ベースボール)の準決勝進出を賭けて、日本と韓国の大一番が正午から生中継される予定になっていたのです。
特に、今回の日本代表は、宮崎で直前合宿を張った関係もあり、いつもの大会より余計に思い入れがあります。
野球は観たい、しかし、身体を動かしたいと迷っているうち正午を迎えてしまいました。
試合開始です。
立ち上がりから韓国の闘志を燃やしたプレーが続いています。
そんな相手の気迫に遅れを取ったのか初回に先発・ダルビッシュが韓国打線につかまり3点を献上しました。
「よしッー出掛けよう!」
今日は負けと決め込み一回の裏の攻撃が終わったところで車に飛び乗りました。
既に午後の1時前。そんなに遠くへは行けません。
とりあえず、宮崎市南部の日南海岸沿いに向かいました。
今年は鵜戸神宮手前の山ザクラはなんとか満開時にカメラに収めることが出来ましたが、それも2月末の話しです。
その時はまだまだ県南の一部地域しか咲いていなかったのですが、それから2週間余り。
堀切峠周辺はタイミングが合わず行くことが出来ませんでした。
念のためのぞいてみましたが、当然のことながら既に終わっていました。
ここで紹介している山サクラの写真は、昨年の3月21日に撮ったものです。
まだ、見頃の状態でした。
ところが、今年はどうでしょう。出かけたのは3月18日です。
堀切峠の山ザクラにはもう既に花のカケラもありません。茶褐色の葉で覆われています。
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2009年04月17日

2009年04月15日宮崎県日南市飫肥城下町を散策D

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飫肥城下町めぐりレンタルサイクリングコースNO20
本町商人通り
江戸時代には、士・農・工・商の身分制度があり、幕末には「本町」に約120の商家が数えられました。
「本町」は後町馬場と前鶴馬場の武家屋敷に挟まれた「商人町」です。
かっては、「本町駅」がおかれ、都城、志布志に通じる街道筋でした。
昭和54年から国道222号線の拡幅工事が始まり、「本町通り研究会」の人の努力によって城下町にふさわしい「商人町」の復元が完成し、白壁、日本瓦葺の町並が出来たことで全国の伝統的都市計画関係者より注目を集めました。                                
                                           (日南市観光協会)
小村寿太郎侯誕生之地
小村寿太郎は、安政2年(1855年)にこの記念碑がある場所に生まれました。
父は町役人(別当職)をしていた小村寛で、八石の徒士席という役人でした。
明治時代になって、小村寛は飫肥藩の専売品を取り扱う飫肥商社の社長に就任していましたが、その経営を巡る裁判によって小村家は破産しました。
その後、土地・建物は隣に屋敷を構えることになる山本猪平に売却されました。
そして、昭和8年(1933年)に山本家が土地を寄付するとともに飫肥藩関係者の寄付金によって現在の記念碑が建てられました。
記念碑の題字は、日本海海戦の指揮官東郷平八郎の揮毫、裏面は大学時代から親交のあった杉浦重剛の誌であります。
平成5年(1993年)、小村寿太郎侯の功績を記念して「国際交流センター小村記念館」が、飫肥城前に開館しました。
また、生誕の家と伝えられている建物は飫肥城近くに残されています。 

2009年04月16日

2009年04月15日 宮崎県日南市飫肥城下町を散策C

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日南市飫肥伝統建造物保存地区                        (重要伝統建造物群保存地区昭和52年5月18日国指定)

飫肥城下は、飫肥藩5万1千石の城下として、明治時代から昭和30年代にかけても南那珂郡の政治、経済の中心地として栄えました。
城下の形成は、天正15年(1587年)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられてから、本格的に建設が進んだと考えられています。
現代においても、江戸時代始めの絵図に描かれた街路がそのまま使用されています。
城下は飫肥城の南に、三方を酒谷川に囲まれた東西850メートル、南北900メートルの範囲で、南北三街路、東西七街路で方形に区画されています。
飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっています。
各武家屋敷は、飫肥石や玉石の石垣と生け垣に囲まれ、格式に応じた門を設けています。
屋敷地の広さは、上級家臣の2000坪から下級家臣でも、260坪ほどとさまざまです。
昭和52年(1977年)、地方における小規模な城下町の典型的なものとして、九州で最初の国の重要伝統建造物群保存地区に選定されました。
保存地区の範囲は、横馬場通り、後町通り、前鶴通りを中心に約19、8ヘクタールに及んでいます。
                (日南市観光協会案内板から)

県指定名勝 昭和8年12月5日指定 宮崎県教育委員会
勝目氏庭園
この庭園は、飫肥城下の武家屋敷庭園を代表する枯山水の庭です。
30坪余りとそんなに広くはありませんが、滝や橋、蓬英石、三尊石などに見立てた石組がみられ、宋の玉澗の山水画を模したと言われる「玉澗式」の庭園と言われています。
一説には、願成就寺第五世住持で、赤面法印と呼ばれた祐遍和尚(1650年頃〜1727年)の作と伝えられているが、様式的には江戸時代中期以降と考えられています。
同庭園を含む屋敷敷地1100平方メートルは、承応年間(1652〜1654年)に鈴木猪右衛門、天保12年(1841年)頃には藩医木脇隆敬が居住していました。
天保城下図によりますと、前鶴通りには藩医の屋敷が多く見られます。
昭和8年(1933年)の指定当時は寺岡氏の所有でしたので「寺岡氏庭園」と呼ばれていましたが、その後所有者の変更により「勝目氏庭園」と呼ばれています。
                   (勝目氏庭園説明板より) 

2009年04月15日

宮崎県日南市飫肥城下町を散策B

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       竹香園
その会場をあとにして、さあこれから飫肥を心ゆくまで歩くつまりです。
まずはじめに本町商人通りを東へ向かい、JR飫肥駅の踏み切りを渡り、日南市のサクラの名所・竹香園を目指しました。
日南市にはよく来ますが、こうして歩くのは初めて。
もちろん、竹香園を訪ねるのも初めてです。
小高い山の麓が公園で、素晴らしく手入れの行き届いた日本調の池があり、そこに植栽されている鮮やかなピンク色の桃の花とともに、その華麗さは絶景です。
思わず何度も何度もシャッターを押し続けました。
サクラの名所は多分この小高い山の上と思い行ってみましたが、まだツボミは硬く閉ざしたままの状態でした。
桜園には郷土の偉人・小村寿太郎侯の銅像が隣接する日南高校を見下ろすように立っていました。
ところでこの像の表面に彫られた小村寿太郎侯の名前の部分が、逆向きに彫られているのには驚きました。
何かの謂われがあるのでしょうか。
周囲にだれもいませんでしたので答えを見つけることが出来ませんでした。
竹香園から、また飫肥の城下町方面へ向かって、テクテクと歩き始めました。
どうやらこの辺で、空から冷たいモノが落ちてきました。
「少しまずい状況です。」周囲も暗さを増してきました。
ただ、いきなり大粒の本格的な雨にはならないようで、シトシトと言った感じです。
そんな中で約2時間かけて、飫肥の武家屋敷や商家が並んでいる街路をくまなく歩き、飫肥城下町の風情を感じながら、それらしき建物や風景を多数カメラに収めました。
ただし、私のカメラの腕とこの空模様が影響して、出来上がりはもうひとつです。
やっぱり、天気の良い日でないと、飫肥の城下町の良さは引き出せません。
幸い、飫肥まで来るのに時間はそんなにかかりません。
天気を選んで再度訪れ取り直したいと思っています。

竹香園 歴史 文化ゾーン 説明
市民の憩いの場としての竹香園も歴史は、明治4年(1907年)に飫肥出身の貴族議員・高橋源次郎氏の所有していた別荘や農地などを昭和26年(1951年)2月15日に、遺族高橋憲一氏より日南市に寄贈されたことに始まります。
寄贈を受けた日南市は、隣接の丘陵部を取り込み、総合運動公園として昭和28年5月からグランド整備などに着手、昭和32年10月20日に総面積4、7ヘクタールの総合公園「竹香園」として供用を開始しました。
竹香園は、日南市を代表するサクラの名所であり、昭和28年以降、「竹香園桜まつり」が市民行事として開催されるなど、市民の憩いの場として広く利用されています。
今後さらに市民の休息、鑑賞、散歩、遊戯、運動などの総合的な利用を目的として、歴史、文化風致的景観の向上を図り、市民の「うるおいと活力」を養う地域の拠点となる公園造りの指針として、竹香園基本計画が策定され、この計画において位置付けされている歴史、文化ゾーンの整備に平成9年度から着手しました。
このゾーンは、高橋氏の別荘地があった場所で、当時(明治40年)の別荘地の庭園は、5年の歳月を費やした回遊式の純日本形式(桃山式庭園)の庭園で、出島や橋、石垣籠を取り込み、サクラや楓などを植え込んでいた名園でありましたが、施設の老朽化や荒廃、雑木などの繁茂が進み、庭園に接する法面が大雨などにより崩壊し再度崩落の危険性が危惧されていました。
しかしながら、今回の整備により、用事の竹香園の復元と樹木空間の再整備、緑化法面保護などを行い、伝統文化、地域文化を体感できる空間、文化的遺産として後世へ引き継ぐ事ができる空間、市民の憩いと交流の施設として利用できる空間の整備が完成しました。

2009年04月14日

宮崎県日南市飫肥城下町を散策A

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     飫肥泰平踊り

車を置いたところからですと、城下町には1時間ちょっとで着くはずです。
周囲は、小高い山々と田んぼ、川に囲まれたいかにも田舎の、のどかな田園風景が広がっています。
田んぼに目をやりますと、満々と水をたたえ、代かきが済み、もう既に田植えの準備が整っているようです。
宮崎県南部地方は、超早場米の産地で、例年3月中旬になりますと、あちこちで田植えが始まります。
そして、本格的な台風シーズン前には収穫を済ませるのが一般的です。
2月中旬以降、雨の量が多くなり、国道と平行して流れている酒谷川も、いつもより水量が豊富でしかも珍しいことに濁っています。
道路のところどころには、鮮やかなピンク色の桃の花が咲き、その中に交じって、早くもサクラの花が咲き始めています。
まだまだ、3分咲きと言ったところですが、曇り空の肌寒い天候とは言え、既に3月も中旬を迎えようとしています。
春の足音が、あちこちから確実に聞こえてくるようです。
そんな沿道風景を楽しみながら歩を進めていましたら、いつの間にか飫肥の城下町に入ってきていました。
国道222号線が、飫肥の城下を南北に分ける本町商人通りを貫いています。
この通り沿いには、商家資料館をはじめ、昔ながらの商家風の建物が軒を連ねています。
時折見かける人力車ですが、今日は天気がもうひとつ。
雨が降ってきたら中止と言うことで空車が目立ちます。
しばらく本町通りを進み、町を東西に分ける大手門通りを飫肥城址方向に折れますと、小村寿太郎の生誕の地があり、そこに隣接する山本猪平邸に観光客が鈴なりになっていました。
なにごとかと思い近づいてみました所、庭園で小規模の人数ながら、泰平踊りが舞われていました。
雨が降ったら中止と聞いていましたので、ここで踊りをカメラに収められたのは非常にラッキーでした。

2009年04月13日

宮崎県日南市飫肥城下町を散策@

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  江戸時代の商家造り
2009年3月8日(日)、椿山森林公園をあとにするころから、空の色はその黒濃さを増してきました。
「通り雨で終わればいいのだが・・・・。」
しかし、天気予報は、「昼前からくずれ、夜は本格的な雨、明日は1日中雨」と、全くあいにくの天気です。
折角、飫肥の城下町を歩くつもりでいましたが、やっぱり観光地。
どうせなら、スカッと晴れた太陽の下を歩きたいものですね。
ところで、今日はなんでも近隣各市やお隣の県などから人力車が集合して、春のたたずまいの城下町を練り歩く人力車サミットというイベントがあると聞いています。
また、小村寿太郎生誕の地近くで、県指定無形民族文化財の泰平踊りも披露されるということですが、雨が降ればすべて中止になってしまいます。
椿山から日南市の飫肥地区までは車で約30分もすると到着です。
飫肥城址大手門下には、観光客用の大型バスも何台も停められる大きな駐車場がありますが、今日の天気を考えますと、「ここでもいいかなあ」と弱気のムシが頭をもたげてきましたが、南下して日南市に入るころには少しではありますが、空も明るさを取戻してきたようで、しばらくは雨の心配は必要ないようです。
歩くと言っても、私にとっては健康増進の一環です。
雨の心配が遠のいたのなら、折角歩くのですから、プラスアルファを付けようと飫肥から国道222号線を西につまり都城方面へ約5kmほど車を進めて、酒谷地区というところの国道沿いの空き地に車を停めました。
ここから、飫肥の城下町に向かって後戻りです。
「雨は降れば降れ」とばかりに、帽子ひとつだけををかぶり、上着は脱いで車に置きなるべく身軽な格好でスタートしました。

2009年04月11日

宮崎市椿山森林公園の椿祭りB

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そして、平成15年3月には世界ツバキ協会の国際優秀ツバキ園(International Camellia Gerden of Excellence)の認証を受けるなど、椿園の規模・椿の種類及び本数において日本一の椿園を確立し、現在も整備が続けられています。
公園の管理は、通常公園管理課が行うところをこの椿園は宮崎市農政部農林水産課が行い、一般の公園とは一線を画しています。
宮崎市を中心に特に椿園の育成管理にいかに力を注いでいるかがわかります。
また、園内には「殿様道路」という整備された歴史のある道が通っています。
これは、天正時代から慶長にかけて(1573〜1614年頃)、飫肥藩の伊東氏が参勤交代で江戸へ参上するときに利用するために敷設されたと伝えられています。
椿の花の間を縫って通る殿様道路、天気が悪いと若干、足元がおぼつきませんが、石畳に歩を進め、椿の花を眺めながらしばし遠い昔に思いを馳せるのも、またオツなものです。
 椿山森林公園は、もともと双石(ぼろいし)山系同様、原生林が生い茂り、特に椿山の名の如くおびただしいほどのヤブツバキが自生していて緑豊かな景観を呈していました。
ところが、戦後の杉の造林で周辺の山々は伐採が進み、椿山のツバキもその対象となり、山の頂上まで杉で埋め尽くされるほどになりました。
事態を憂慮した地元や宮崎市は、昔のようにツバキを再生させようと、市制60周年の記念事業としてこの一帯を世界一の椿園としてすべく昭和59年から事業に着手、そして平成2年5月に開園にこぎつけました。
椿の数や種類は今なお、記念植樹や米国バージニアビーチ友好使節団来園記念植樹など各種イベント、宮崎市・地元などの精力的な植栽で増え続けています。
ところで、椿山森林公園は宮崎市の南西部の標高300〜400mの山岳地帯から北郷町までを境界としていますが、この一帯は前述の杉の植樹で、見渡す限り特産のオビ杉の林で囲まれています。
宮崎市田野町から北郷町へ向かう日南―高岡線から見渡せるオビ杉の景観は大変素晴らしいものがあります。
途中展望所が設けられていて、そこから見渡せるオビ杉の景色は絶景と言えます。
また、道路沿いには、山ザクラやソメイヨシノのサクラの木が多数植栽されていて、既に山ザクラは峠を越えましたが、もうじき訪れるソメイヨシノの開花期はまさにスカイラインチェリーと言いますか、最高の景観を楽しむことが出来ます。

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